Jewel days
幼い頃、
母のドレッサーに置かれた
ジュエリーボックスを
こっそり眺めるのが大好きだった。
ふたを開くと
大きな鏡がついていて、
細かく仕切られた小部屋には
ちょこん、ちょこんと
丁寧に一組ずつ、
イヤリングが並べられている。
引き出しの中には、ネックレス。
私の母は、
銀行員を経て
父と社内結婚し、
専業主婦になることを選んだ女性だ。
昔の写真を見ると、
独身時代の彼女は
我が母ながら
相当の美人で、
そしてとてもお洒落な女性だった。
結婚し、
幼い私や弟を抱く母も
今見ても
黒縁の洒落た眼鏡をかけ、
くるんくるんのパーマに
素敵なニットを纏って
微笑んでいる写真がいっぱい。
そんな母が
独身時代から
長年かけて集め続けた
ジュエリーたちが並んだボックスは
幼い少女である私にとっては
まさに宝箱で、
たまらなく
綺麗で、可愛くて、きらきらしていた。
中でも
私がお気に入りだったのは、
母が新婚旅行先の
ハワイで買ったという
淡いサーモンピンク色の
貝殻をつないで作られている
ショートネックレスとイヤリング。
ドレッサーの前で
それらを
クリームパンみたいな
むっくむっくの小さな手で
自分の首と耳に当てては
恍惚とした表情を浮かべる幼い私に
「智ちゃんが
もう少し大きくなったらあげるね」
と母が言ってくれたのは、
いくつのときだったのだろう。
我が家は
幼稚園、小学校と
毎日着るブラウスやシャツ、
パンツ、スカートはもちろん
入学式や卒業式の
スーツやワンピースまで
母の手作りの洋服を着ることが
圧倒的に多かった。
手先の器用な母は、
手芸も編み物も得意。
デパートの洋服売り場に行っても
「これはすぐ作れるよ」
が、口癖だった。
(そしてこの口癖は、
今や母の血をそのままそっくり
受け継いだ弟がよく言うようになった)
当時は
同級生が着ている既製品の洋服を
羨ましく思う気持ちもあったけれど、
友達に
「こでちゃんのマフラー、可愛いなぁ」
「こでのナップサック、お母さんが作ったの?すごいね!」
と言われるたびに
子ども心ながら
世界にひとつだけのものを作ってくれる
母のことを誇らしく思っていたことを
昨日のことのように思い出せる。
(昔の私のあだ名は「こでちゃん」か「こで」)
・・・
いつからか
母がお洒落をしなくなった。
しなくなったのではなく、
できなくなったのだと思う。
母が諦めるときは、
真っ先に自分のこと。
人生の優先順位はいつだって、私と弟。
あのジュエリーボックスは
ドレッサーのいつもの場所で
埃をかぶり、
開かれることもなくなり、
置物のようになっていた。
今でも時折思い出す、
母からの言葉がある。
「私はね、あなたたちに出会えて
生まれて初めて
本当の意味で“愛する”ことを知れたの。
出産は、素晴らしい体験だった。
だから子どもたちに感謝してる。
生まれてきてくれて、ありがとうってね」
母は
私たち姉弟を育てることに
自分だけのためにお金を使い、
お洒落すること以上の悦びを
感じてくれていたのだろうか。
先日、
夫の家族と私の家族とで
小さな食事会を開いたとき、
母が少し照れくさそうにしながら
「この日に合わせて
上下お揃いのブラウスとスカートを買ったの」
と打ち明けてくれた。
「いいじゃん、可愛い!
これからもどんどんお洒落しなよ!
海外のマダムみたいにさ、
カラフルな服着ちゃいなよー!」
「えぇ~恥ずかしいよ~」
言葉ではそう言いながらも、
母は、なんだかとても嬉しそうだった。
・・・
私たちは、
決して“多く”を持つ必要はない。
けれど
身に纏うものによって
女性として
生まれてきたことを
最大限楽しみ尽くしたいと、私は思う。
「私」という人間が
ここに確かに在るのだと、表現し、証明したい。
母にももちろん、
そうし続けていてほしい。
これからも、ずっと。
次回、
実家に帰省したときには
あのジュエリーボックスを
久しぶりに母と2人で
あの頃を思い出しながら
開けてみようと思う。
とびっきり可愛い
ヴィンテージジュエリーに
出合える予感がする。
_
text :
小寺智子
1983年生まれ、北海道出身。編集者。O型。
INSTAGRAM:@tomoko_kodera